特集 第2回:「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」の基本的な概要と魅力、日本語版のインプレッション

2022年7月12日 22:11 by katakori
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「Disco Elysium」

先日ご紹介した第1回の特集記事では、オリジナルの「ディスコ エリジウム」と完全版「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」が海外メディアに与えた衝撃や驚きの高評価ぶり、スタジオの出自等に焦点を当て、作品の登場そのものが海外市場に大きな衝撃を与えた当時の現象のようなものを振り返りました。

2回目となる今回は、いよいよ「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」がどんな作品なのか、ビデオゲームとしての基本的な魅力にフォーカスする入門的な内容に加え、日本語版に関する簡単なインプレッションをお届けします。

「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」の概要

参考:日本語版「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」のアナウンストレーラー

「ディスコ エリジウム」は、架空の世界“エリジウム”を舞台とするアイソメトリックな見下ろし型のオープンワールドRPGで、酷い薬物/アルコール依存症の中年刑事がクールな相棒と共に、とある殺人事件を捜査する物語を描いています。(※ “ザ ファイナル カット”は、オリジナルの本編にフルボイスや幾つかの新コンテンツ、コントローラー/コンソール対応といった大規模な拡張を加えた完全版)

こう書いてしまうと何の変哲もない話ですが、本作が“まとも”じゃないのは、主人公が自分の職業や名前、過去、目覚める直前まで何をしていたかさえ思い出せない、完全な記憶喪失であること、主人公の脳内で人格の断片や感覚がしばしば脳内会議を始め、挙げ句の果てにはネクタイまでが喋りかけてくる酷い分裂状態にあること、異様なほど緻密に構築された作品世界、そして元々何の話をしてるんだったっけと話の筋を見失うほど自由自在に脱線し続ける混沌とした話運びによって前述のストーリーが進行することにあります。

余談ながら、本作の作品世界“エリジウム”にはThe Elder ScrollsやFallout、指輪物語を彷彿とさせるような、8,000年近い規模の壮大かつ複雑な歴史が完璧に構築されています。「ディスコ エリジウム」という奇妙な名称は、主人公の人物像に深く関わる“ディスコ”と作品世界の名を組み合わせたものですが、ディスコにはラテン語(discō)で学ぶという意味があり、本作の父Robert Kurvitz氏は、このタイトル名には「エリジウムを学ぶ」という意味が込められていると説明しています。

「Disco Elysium」

本作には幾つか非常に独創的なシステムや要素が用意されていますが、従来の一般的なRPGとは決定的に異なる大きな特徴として、戦闘の完全な不在が挙げられます。

これは、戦闘を便宜上何か別のシステムに置きかえるような代替的アプローチではなく、要素として戦闘系の仕組みやシステムが一切存在していないことを指しています。

一応、本作には“体力”と“気力”が数値で存在しており、これが失われるとゲームオーバーになってしまいますが、これは会話の流れやアイテム(薬物やアルコール、タバコ等)の使用等によって変化するもので、通常のゲームモードでプレイしている限り、回復に困ることもなく、一般的なRPGのような感覚でゲームプレイの失敗を心配する必要はありません。

戦闘が全く存在しない「ディスコ エリジウム」の基本的なゲームプレイは、人々との会話を含む文章を読むこと、そして舞台となる街の探索に集約されており、ざっくりまとめると本作は「ひたすら文章を読むRPG」であると考えてもらって相違ありません。

「ディスコ エリジウム」には、リアルタイムで進行する要素やアクションもなく、ビデオゲーム的なゲームオーバーを心配する必要もないことから、一見難しそうな印象とは違って、文章さえ読めれば誰でも、それこそ普段はゲームをしない人でも十分クリアできる間口の広さも特徴の一つだと言えるでしょう。

「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」のテキストについて

「Disco Elysium」

しかし、そもそも“ひたすら文章を読むだけのRPG”というのは、ゲームとして面白いのか?ビジュアルノベルと何が違うのか?もちろん誰もが抱く疑問だと思います。

前回の特集でご紹介した通り、本作は高品質なテキストが各所で絶賛され、高い評価を獲得したことから、文章の面白さ自体はお墨付きと言って間違いないわけですが、一旦この要素をもう少し分解してみます。

ことビデオゲームにおいて、テキストが高品質だと言われれば、さぞやストーリーが面白いのだろうと考えるのが当然の反応でしょう。

キャラクターそのものを愛でるようなタイトルやストーリー自体が存在しない作品を除けば、ビデオゲームのストーリーは、プロットによって駆動することが多く、プロットを動作させるための装置としてテキストを利用しているケースが広く見受けられます。

この点において「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」が他の作品と大きく異なるのは、本作の文章がどの時点で切り取っても(例えオープニングだろうが、エンディング直前の山場だろうが)常に面白く洗練されているということで、プロットの推進力を担う機能的な役割はかなり薄く、明らかに文章そのものの面白さを重視しているアプローチが、(30時間を優に超える規模の)“読むRPG”をエキサイティングな経験として持続させることに成功しています。

また、目の前に流れてくるテキストを読むこと自体が大きな楽しみであることは、「ディスコ エリジウム」が(単にプロットを追うだけではなく、作劇によるドラマ的ストーリーテリングにも頼らない)極めて高度な文学的作品であることを明示していて、これが本作の極めて重要な魅力、特色の一つとなっています。

もちろん、作品全体の壮大な物語とプロットも実に素晴らしいのですが、本作はプレイしているその瞬間のテキストが突出して面白いことから、眼前で繰り広げられる混沌と目の前を流れ行くテキストに身を任せ、その瞬間だけを楽しんでいれば、いつのまにか物語の巨大な渦にすっかり飲み込まれているという、読み物系のビデオゲームとしてこれ以上ない最高の体験が待っているわけです。

本格的なRPGシステム

「Disco Elysium」

テキストと物語がめっぽう面白い、読むゲームだとなれば、それは良く出来たビジュアルノベルとどう違うのでしょうか?

前述の通り、「ディスコ エリジウム」には戦闘要素が一切存在しませんが、一方で非常に高度なRPGシステムが用意されており、テキストを読むこととビデオゲーム的な楽しさが高度に一体化しています。

システム的な詳細については、次回以降の特集で改めてご紹介しますが、本作は会話中やダイアログの選択時に様々なスキルチェックが発動し、6面ダイスを2個振るテーブルトークRPG的なダイスロールによって展開が大きく変化します。

また、ゲームプレイのアプローチが大きく変化する3種のアーキタイプとカスタム機能を用意したキャラクター作成システム、様々な役割や効果を持つ個性的なスキル群、これをさらに強化し拡張する独創的なシステム“思考キャビネット”、XPベースのレベルアップと強化、装備品の変更によりステータスが変動するインベントリシステム等によって、ダイスロールの成否が大きく変わるほか、主人公の人物像や政治的傾向を示す詳細なパラメーター、メインストーリー用のクエストやサイドアクティビティを包括するタスクシステム、昼夜の変化を含むリアルタイムではない時間進行など、多種多様なRPGシステムが存在しています。

さらに、ZA/UMが“マイクロリアクティブ”と呼ぶ、一見目立たないながらも、技術的にかなり困難な会話用システムも実装されており、過去に行われた会話のちょっとしたやりとりや行動が、しばらく後で生じる出来事に変化を与えるような、非常に複雑な相互関係でNPCとのやりとりに活気や臨場感を与えている点も大きな見所の一つと言えるでしょう。

こういった本格的なRPGシステムやオープンワールドゲームのノンリニア性が「ディスコ エリジウム」のテキストを読むという行為に、非常にダイナミックでエキサイティングなゲームプレイをもたらしているのです。

特に、ときおり生じる重要人物とのやりとりには、ひとまとまりの対話が20分から30分近く続くようなものもあり、ストーリー上重要な情報や選択を含む会話やダイスロールは、さながらボス戦のような緊張感と手に汗握る展開が味わえる、本作のもっともエキサイティングな要素の1つに挙げられます。

加えて、本作のテキストが全体を通じて極めて高品質であることは、スキルチェックのダイスロールに失敗した際にも面白いことが起こることを意味しています。

前述したRPGシステムを駆使し、攻略的なプレイでゲームを進めることも可能ですが、本作は例えダイスロールに失敗しても(極端なステ振りでさえなければ)致命的な事態には陥らず、その後も問題なくストーリーが進むだけでなく、むしろダイスロールの失敗が愉快な展開ややりとりを生むことも多々あり、ゲーム的に上手くプレイすることよりも、プレイヤーが思い描く刑事像やキャラクター像を追求する、本来の意味でのロールプレイングが存分に楽しめる柔軟な設計やバランスを重視していることが本作の大きな特徴であり、これこそ「ディスコ エリジウム」が従来のコンピュータRPGよりもテーブルトークRPGに近いと評される所以でしょう。

「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」に用意されたテキストの規模について

しばしば話題になるビデオゲームのダイアログに関する行数やワード数、オープンワールド環境の面積といった要素は、本来ゲームの面白さとはあまり関係ないのですが、こと「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」においては、“読むRPG”として作品の規模を直接示すだけでなく、日本語版が登場することの意義にも深く関わる内容であるため、この機会に本作の規模についてご紹介しておきましょう。

本作の英語テキストは、バニラの「ディスコ エリジウム」で100万ワード以上、完全版「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」で15万ワード以上が追加されており、合計で115万ワードを超える規模となっています。(※ ZA/UMのリードライターHelen Hindpere氏によると実際は120万ワードに近いとのこと)

この115万、120万ワードという規模がどんなものか、分かりやすく小説で比較してみると、『ハリー・ポッター』シリーズの原作原文を“賢者の石”から“死の秘宝”まで、全て合算すると108万4,170ワード。『ホビット』と『指輪物語』3冊の合算が原文で57万6,459ワード。ジョージ・オーウェルの『1984』が約8万9,000ワード。ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が約7万9,000ワード程度だと知られています。(※ ビデオゲームで言えば、Black Isle Studiosが生んだカルト的な傑作でRPGのオールタイムベストにもしばしば選ばれる恐ろしく長大な作品『Planescape: Torment』が約96万ワード、あの『Dragon Age: Origins』でさえ74万ワードです)

「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」は、1度のプレイスルーで全てのテキストを読むわけではありませんが、一般的な小説で15冊分程度、もしくは“ハリー・ポッター”を全巻読破するよりも長い規模の物語が収められていると考えれば、その著しい過剰さがお分かりいただけるでしょうか。

しかも、本作のテキストは難解な箇所が多く、脱線に次ぐ脱線、独自の造語、架空の歴史、複数の方言、魔術的リアリズム系の表現技法、脳内会議、リアルな口語、英語以外の言語を用いる表現など、良い意味で全く平易なものではないため、ハリー・ポッターほどするりと読めるわけではありません。感覚的にはトマス・ピンチョンの初期~中期作品に近く、『重力の虹』が原文で35万ワードであることを踏まえると、『重力の虹』と『V』、『メイスン&ディクスン』を合算したようなボリュームで(幾分か作風の近い)『LAヴァイス』を一気読みするような体験に近いと言えるかもしれません。

日本語版「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」のインプレッション

「Disco Elysium」

今回、当サイトで「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」の特集を組むにあたって、スパイク・チュンソフトより日本語版の開発ビルドを提供いただき、日本語によるゲームプレイを進めています。

本作の善し悪しについては、日本語版の発売時に改めてレビューをお届けしますが、今回の特集でご紹介してきた本作の概要とテキストにまつわるあれこれの締めくくりとして、日本語によるプレイのインプレッションをお伝えしておきます。

ここまでご紹介してきた通り、「ディスコ エリジウム」はビデオゲーム史上最も緻密に構築された作品世界の一つを舞台に、アイデンティティの危機に瀕する破滅型の中年刑事が殺人事件を捜査したりしなかったりする荒唐無稽な物語を難解かつ執拗に描く作品であり、これを味わい尽くすには政治やカルチャー、思想、宗教、哲学、文学、歴史、イデオロギーなど、多種多様な分野への理解とリテラシーが必要となるだけでなく、話そのものが縦横無尽に変化することから、原文を読むことの難しさと求められる体力はビデオゲームの中でも間違いなく最高ランクに位置しています。

筆者は一通り英語版をプレイ済みですが、正直なところ“楽しめた”とは全く言えません。耳慣れない言葉と膨大な情報の波に圧倒され、辞書と格闘し調べ物をしながら、かたつむりのようなスピードで完走したプレイは、本作がとてつもない作品だったことや難しさ、幾つかのディテールをある程度事後的に“理解できた”とは言え、本来持ち合わせている魅力を味わうにはほど遠い体験でした。

しかし、日本語版のプレイは苦行のような“読むための作業”が必要なく、本来「ディスコ エリジウム」が持ち合わせているユーモアやアイロニー、衒学的な表現をすらすらと追うことができるため、ゲームプレイの展開と読むスピードに酷いギャップが生じず、本来のテキストが持つリズム感や展開の緩急、勢いを損なうことなく読むことで、初めて本作の楽しさを“生”で味わうことが出来ました。

英語で酷く苦戦したものの、ある程度“分かった”(ぜんぜん分かってない)と勘違いし、日本語版は答え合わせのようなプレイになるだろうとたかをくくっていた筆者にとって、すらすら読めることから生まれる日本語版の楽しさやライブ感は、本当に目から鱗が落ちるような驚きで、英語版に手を出して苦戦した方なら、間違いなく驚嘆する体験が得られると断言できます。

また、本作には独自の造語や耳慣れない慣用表現が多数存在していますが、なんと日本語版には原文にない、非常に分かりやすい“訳注”が用意されていて、本作のテキストを読むことの楽しさを(難しさによって)損なわせないための細やかな配慮がなされている点も実に見事でした。

115万~120万ワード規模の、しかも非常に難解なテキストからなる傑作「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」が日本語で気軽に、すらすらとプレイできるばかりか、パッケージ版には基本情報を集約したプレイガイド“捜査ハンドブック”まで同梱されるとあって、プレイすることの障壁を可能な限り取り払った日本語コンソール版が登場することの意義は極めて大きいと言わざるをえません。

「ディスコ エリジウム」誕生の歴史

「Disco Elysium」

今回ご紹介した基本的な情報をもとに、次回以降の特集は「ディスコ エリジウム」をさらに深く、幾つかの側面から掘り下げる予定ですが、その前に第1回の特集でご紹介した海外メディアの論評のなかに幾つか言及のあった、「ディスコ エリジウム」が従来のビデオゲームの一般的な型にはまらない作品であるという点について、その直接的な要因となっているスタジオZA/UMの出自と「ディスコ エリジウム」誕生の歴史について、この機会に1度簡単にまとめておきたいと思います。

ビデオゲームに限らず、私たちが普段から目にしている芸術や文学、映画、音楽、コミック、アニメといったあらゆる形態のメディアは、数々の先人達が脈々と築き継承してきた成功や発見(或いは失敗)の上に立つ、いわゆる“巨人の肩の上に乗る”ことで存在しており、今や(純粋なアウトサイダーアート/アール・ブリュットを除いて)体系から全く逸脱した完全に新しい発明的作品を生み出すことは極めて困難な、むしろ不可能に近い奇跡だと言えるでしょう。

つまり、近現代以降の作品というものは、必然的に過去の事象や技術の組み合わせからなるものであり、そこにクリエイティブな情熱や独自の視点、新たに積み上がるテクニカルな進化/洗練、古くなってしまったものの刷新、作家性といった要素を混ぜ合わせることで、フレッシュさや類似作品との違いを担保しています。

だからこそ、人々は新たな歴史を生み出すような発明的作品を賞賛し、ビデオゲーム分野で言うならばウォーレン・スペクターやリチャード・ギャリオット、カーマックとロメロ、ケン・レヴィン、ウィル・ライト、ティム・シェーファー、小島監督、宮本さんといった伝説的なパイオニアやイノベーターを愛してやまないわけです。

前回ご紹介した海外メディアの論評において、RPG Codexは「ディスコ エリジウム」が最高傑作というわけではなく、ただ作品の形式や姿勢、インスピレーション、美学的に目指すところが他のビデオゲームとは余りにも違いすぎるのだと説明していました。

「ディスコ エリジウム」が海外であれほど熱狂的に迎えられた背景を考えると、本作は前述した発明的作品の一つに数えられるのでは、と思われるかもしれません。しかし、実のところ「ディスコ エリジウム」に発明的な要素はほぼなく、むしろ先人達が積み重ねてきた“巨人の肩の上に乗る”典型的な作品だと言えます。

ただ一点、本作が従来のビデオゲームと大きく違うのは、その継承が(ある決定的な1作を除いて)ビデオゲームの肩よりも、むしろ文学や詩、芸術、政治、経済、思想等に著しく偏っていることにあり、作品のテーマ/コンセプトに開発者達の個人的な経験やスタジオが誕生したエストニアの複雑な歴史が強く影響していることと相まって、「ディスコ エリジウム」が従来のビデオゲームとは全く異なる突然変異的な作品だと感じられることの直接的な要因となっています。

前置きが長くなってしまいましたが、つまり「ディスコ エリジウム」の特殊性はスタジオと作品の出自にこそあるわけで、これを簡単にでも把握しておくと、ビデオゲーム史上最もハイコンテクストな作品の読み解きや解釈が幾分か楽になると考える次第です。

「ディスコ エリジウム」とスタジオ“ZA/UM”の誕生には主に3人の主要開発者達が深く関係しています。一人はエストニア出身のミュージシャン兼小説家で、ZA/UMの共同創設者、そして「ディスコ エリジウム」のライター兼デザイナーである最重要人物Robert Kurvitz氏、画家のAleksander Rostov氏(ZA/UMの共同創設者兼アートディレクター)、そしてエストニアの著名な小説家で起業家でもあったKaur Kender氏(ZA/UMの製作総指揮兼ライター)です。

ことの始まりは2005年、バンド“Ultramelanhool”で活動していた20歳そこそこのRobert Kurvitz氏がエストニアの首都タリンで友人達と飲み明かしていた際、自分達の貧しく不運な境遇を嘆き、これを打破すべく、社会からドロップアウトした売れない作家やアーティスト、思想家達からなるクリエイティブ集団を作った、そこで思いついたのが“ZA/UM”という単語でした。

“ZA/UM”がスタジオの正式な名称となるのは2009年ですが、Robert Kurvitz氏と友人達は、以前から“ダンジョンズ&ドラゴンズ”に影響を受けたオリジナルのテーブルトークRPGをプレイしながらその世界の拡張と構築に情熱を注いでいて、青銅器時代から中世、スチームパンクな近代へと時代を進めながら独自の歴史や設定を重ねていった結果、後に「ディスコ エリジウム」の舞台となるエリジウム世界が誕生することになります。

この頃、Robert Kurvitz氏は作家を目指し、エリジウム世界が舞台となる処女作『Sacred And Terrible Air』の執筆を開始。当初から友人だったZA/UMのメンバーAleksander Rostov氏が挿絵を担当し、小説家Kaur Kender氏のビジネス的な協力も得て、5年近い歳月を費やして完成させた小説『Sacred And Terrible Air』を2013年に自費出版しましたが、これは僅かに1,000部程度しか売れませんでした。

小説の失敗とZA/UMで取り組んでいた政治と文化をテーマにしたカルチャー誌の失敗も重なり、Robert Kurvitz氏は失意の底で酷い鬱に悩まされ、アルコール依存症に陥ってしまいます。しかし、ZA/UMのメンバー達はRobert Kurvitz氏を支え、特に自身もアルコール依存症を患った経験があったKaur Kender氏が自身の息子達から(今は小説なんて誰も読まない、ビデオゲームにすべきだという)助言を受け、Robert Kurvitz氏にCRPGのアイデアを持ちかけたことで、ZA/UMの誰一人予想すらしていなかったビデオゲーム開発の構想が突如として生まれたのでした。

当時のエストニアには、そもそもビデオゲーム開発産業自体が存在しておらず、僅かにモバイル向けのデベロッパが1社存在するのみで、当然ZA/UMにはゲームの開発経験者がいるわけもなく、資金さえありません。

しかし、Robert Kurvitz氏は2014年11月16日に「ディスコ エリジウム」の前身となるタイトル「Torson & McLaine」(仮題)として、モラルや社会経済をテーマにした、かつてないアートスタイルとどんな警官にでもなれる自由度の高いキャラクター構築要素、貧困にあえぐ広大なゲットーの探索、剣と銃と自動車が混在するエリジウムベースのファンタジー世界、奥深いストラテジーコンバットを備えたデビュー作のコンセプトを作り上げます。

これに感銘を受けたKaur Kender氏は、資金面の問題をクリアすべく、いつかカンヌ映画祭で賞をもらう時のために所有していた自身のフェラーリ(なんとドルフ・ラングレンが乗っていたもの)を売却。これを元手に遂に「ディスコ エリジウム」の開発が始動するわけですが、そもそもZA/UMには開発の経験者がいないため、計画は英語によるライティングやコーディングの学習、ツールやソフトの習得、ビデオゲーム開発の手法を模索する段階からスタートするほかなく、それでもなお自分達には革命的なRPGを作る以外に残された道はないと決心。その5年後、ついに発売までこぎつけたデビュー作「Disco Elysium」は、Metacriticで90を超える奇跡のような偉業を達成したのです。

ここまでは、広く知られている「ディスコ エリジウム」と“ZA/UM”の歴史ですが、Robert Kurvitz氏自身は本作の開発が実のところ2000年には始まっていたと説明しています。

これは紐解くには、前述した“ZA/UM”の誕生よりもさらに過去、そしてさらにRobert Kurvitz氏が17歳でバンド“Ultramelanhool”を結成するよりもさらに前の時代にまで遡る必要があります。

参考:Robert Kurvitz氏がボーカルを務めたUltramelanhoolの楽曲“ilusat und hr. insener”
ちなみにUltramelanhoolは2004年から2008年に掛けて2枚のアルバムをリリースした

元々、エリジウム世界を舞台とするテーブルトークRPGを始めたのは、ハイスクールを中退したRobert Kurvitz氏と友人達が結成した小規模な不良グループ“The Overcoats”(※ 屋外でしか活動できなかったため、皆が厚いコートを着込んでいたことに由来する)で、政治的に極めて不安定だったエストニアで社会や学校教育から脱落し、仕事もなかった彼らは、今日は例え静かに過ごそうとも、明日は必ずや世界を支配してやると虚勢をはり、酷い時にはマイナス22度まで冷え込む極寒の世界で職も行き場もない自分達が生き残るためには、何らかのアーティストになるしかないと思い込み、社会と戦うための器として没頭したのが“エリジウム”世界の構築だったのです。

前述した主要メンバーの一人Aleksander Rostov氏は、元々“The Overcoats”のメンバーであり、ZA/UM創設時の初期メンバーであるライターArgo Tuulik氏もまた“The Overcoats”のメンバーで、何れもRobert Kurvitz氏と共にエリジウム世界を作り上げてきた盟友でした。

Robert Kurvitz氏は、エリジウム世界が孤独な子供が10代で作り上げる“パラコズム”(幼少期のイマジナリーフレンドに類する子供の空想世界を指す児童心理学用語)のようなものであり、エミリー・ブロンテやヘンリー・ダーガーの作品に近い“創造者によって忘れられなかった”世界だと伝えています。

また、氏はこれを友人達と構築していく過程で、普通の生活や進学、職業を手に入れる友人達を傍目に強いコンプレックスを抱き、現実の社会に立ち向かいコンプレックスを凌駕するためには、無学で腹を空かせた只のアナーキスト/マルクス・レーニン主義者ではダメだと考え、受け損ねた教育を補い、作品世界に厚みを持たせるべく、哲学や歴史書を読みあさることになるわけですが、Robert Kurvitz氏はこういった思いに至り、二十歳ではじめて政治における右と左の意味を知ったと告白しています。

社会から脱落した不良グループのメンバー達が何の経験もないまま(ZA/UMの最初期に参加したリードライターHelen Hindpere氏に至っては当時なんと14歳だった)世界的、歴史的な成功を収めた奇跡のような出来事は、まるでボノとU2のようですが、ZA/UMの偏執狂的な作風と作品世界のコンセプトを鑑みると、どこかで間違って成功してしまったヴァージン・プルーンズという方が適切かもしれません。

Robert Kurvitz氏は、エリジウム世界が“パラコズム”として商業的であってはならないと断言していますが、氏が体験した失意とアルコール依存症、そこからの復帰、ヨーロッパとロシアの狭間で政治的に不安定だったバルト三国の歴史、彼らが望まないまま陥っていたマルクス・レーニン主義といった数々の実体験的な要素は、「ディスコ エリジウム」の核そのものであり、つまり“パラコズム”として完成した「ディスコ エリジウム」は極めて私的な自分/自分達を取り戻すための壮大な旅の帰結だと言えます。

「ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット」の物語には、日本人にはやや理解が難しい東欧特有のイデオロギーにまつわるある種の憧憬や風刺的批評が存在しています。また、一部のエンディングやシーケンスで描かれる非常にエモーショナルな瞬間を含め、こういった要素は何れもここでご紹介した“ZA/UM”とRobert Kurvitz氏の私的な出自に深く関係しています。

絶望の淵に立つ中年刑事の物語がなぜ120万ワードもの言葉を費やして描かれるのか、無垢で巨大な“パラコズム”に生まれた小さなアポクリファという特異な作品の魅力は、その出自と背景を知ることで何倍も深く味わえるはずです。

という事で、第2回の特集はここまで。次回は今回言及した“巨人の肩”のくだりを掘り下げるために、「ディスコ エリジウム」に影響を与えた様々な作品と背景についてご紹介したいと思います。

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