UPDATE:12月9日18:19
今回のレビューにおいて、一部主旨が掴みづらい箇所がありましたので、途中に前段のまとめ的な補足を追記しました。一旦公開した記事への追記で大変恐縮ですが、興味がある方は補足箇所へのリンクからご一読頂けると幸いです。
初めてご覧頂く方は、気にせずそのままお読み下さい。以下、本文となります。
希代の期待作「サイバーパンク2077」が(幾度かの延期を経て)いよいよあと2日で発売を迎えます。
思い起こせば、コンソール第8世代を象徴する傑作の1つとなった“The Witcher 3: Wild Hunt”の正式発表をさらに遡る、2012年5月31日にアナウンスされ、ArchiveのBulletsを起用したあの大変なティザートレーラーのお披露目から8年半もの歳月が過ぎ、この作品と登場を待ちわびる現実は、遂にブレードランナーの2019年11月とAKIRAの2019年を追い越してしまいました。
今回、「サイバーパンク2077」の世界的な発売にあたって、CD PROJEKT REDより製品版相当のレビュービルドを提供いただき、一足先にナイトシティの生活を体験することができました。
という事で、今回は「サイバーパンク2077」のレビューを一切のネタバレ無しでご紹介します。
便宜上、レビューをご紹介すると書いてはみましたが、「サイバーパンク2077」のプレイスルーを終え、衝撃的なエンディングとスタッフロールを目の当たりにした今、この作品を評価するということほど意味の無い、無駄な行為はないように感じています。
ただ、この作品を心待ちにしてきたゲーマーの1人として、延期や憶測から多くのファンが品質や仕上がりについて懸念しているであろう心配事を払拭することはできます。
「サイバーパンク2077」は大丈夫です。
本作は、現存するAAAクラスのビデオゲームとして、あらゆる面で超弩級の品質と体験を備えた、どこを切っても面白い、最高の逸品です。全てのエンターテインメントジャンルにおけるブロックバスターの新しい到達点だと言い換えてもかまわないでしょう。
閉塞感に満ちた薄暗い裏路地から思わず息を呑むようなバッドランズの景観を含む壮観なビジュアル、思わず声を上げて驚くようなサプライズや奥深い人物描写に彩られた重厚なストーリー、“ウィッチャー3”からさらに磨き抜かれた最高クラスのローカライズ、公言通り“ウィッチャー3”よりも僅かにコンパクトでフォーカスを絞った素晴らしい本編と掘っても掘っても底が見えない膨大なサイドアクティビティ、プレイヤーの行動や決断をより如実に反映するストーリー展開の変化とマルチエンディング、もはや狂気の産物としか思えないナイトシティの作り込み、超豪華という言葉ではとても言い尽くせない攻めすぎのサウンドトラック、時間をみるみる溶かすフォトモード、プレイスタイルやカスタマイズの豊富さ、サイバーパンクとしての格好良さに至るまで、全ての要素が常軌を逸するCD PROJEKT RED品質の仕上がりなので安心してください。(事前情報通り、PC版が規制無しであることも改めて確認できました)
以前、当サイトのハンズオンプレビューにおいて、CD PROJEKT RED作品の魅力はある種の過剰さにあり、この病的とも言える過剰さは以前にも増して、いい意味で悪化しているとご紹介しました。
完成した「サイバーパンク2077」を実際にプレイしてみると、この悪化ぶりは前回の予想をはるかに上回っていて、ナイトシティの街並みやゲーム世界の作り込み、コンテンツのバリエーション、作品そのものの博覧強記ぶりは、前代未聞の事件だったゴールド発表後の延期もむべなるかなというもの。
本作は余りに巨大すぎる作品であることから、恐らく発売直後は細かな問題が散見されるかと思いますが、これも順次対応が進むでしょう。
「サイバーパンク2077」は、歴史ある人気TRPG“Cyberpunk”シリーズに基づくビデオゲームであり、伝統的なサイバーパンクの血統と文脈上で語られる作品ですが、何一つ難しいことはなく、プレイに事前知識は一切必要ありません。
なんだか小難しそうと感じる(かもしれないという)障壁は、“Cyberpunk”シリーズの熱心なファンである筆者が一抹の不安を覚えていた懸念の1つでしたが、これも実際にプレイしてみて、何の事前知識も要らないことをはっきりと確認できました。
(原作に描かれた過去の出来事やストーリーを含めて)本作を楽しむために必要なことは“全て”、ゲームの中に過不足なく用意されています。
着の身着のまま、何も知らないままナイトシティに飛び込んで問題ありません。
そこはこれまでに誰も見たことがないような没入感の高いシームレスな世界で、誰もがそれぞれのスタイルで思いのままにサイバーパンクな人生を駆け抜けることができる最新型のテックバビロンです。
ナイトシティには、掘れば掘るほど大量のお楽しみが用意されているので、もし小難しいことやシリーズの過去のこと、知らなかった分野の何かが気になりはじめたなら、それはそのとき。後で調べましょう。
これは、ただ黙ってやってみりゃ分かると乱暴なことを提案しているわけではなく、「サイバーパンク2077」自体がどんなレイヤーのプレイヤーでも存分に作品を楽しめるよう、デザインや経験、導入の設計を極めて入念に行い、夥しい量の情報とコンテンツを十分にコントロールしていることを指しています。
前回のプレビューにおいて、(CD PROJEKT RED特有の過剰さと物量が)サイバーパンク初心者にはいささか難し過ぎやしないかと心配していた筆者にとって、これは大きな驚きの1つでした。
この設計はもちろんハードコアなファンにも当てはまります。筆者はこの8年間ひたすら予習に没頭し、幾つか足らなかった日本語版のサプリメントを改めて買い揃え、購入できる全ての英語版ドキュメントをひたすら読み込み、古典から最新のものまで多くのサイバーパンク小説、映画、ドラマを網羅的に貪ってきましたが、今回のレビューで「サイバーパンク2077」をクリアしたところ、改めて当たらなくてはいけない古典や作品がさらに噴出し、今まさに(嬉しさで)目眩がしているところです。
リニアなゲームと比較して、ここで得られる“わたし”の経験や楽しさ、そして“誰か”の楽しみ方と経験には大きな隔たりがありますが、この隔たりもまた「サイバーパンク2077」の奥深さと圧倒的な自由、狂気じみた作り込み、巧みなナラティブの構築など、様々な要素が渾然一体となり、意図的に生み出されているものです。
だからこそ、一刻も早く、“誰か”の経験を知るまえに(そしてネタバレを浴びないよう)、“自分”の経験として「サイバーパンク2077」を知ることこそが一番重要なのではないかと思う次第です。
なによりも「サイバーパンク2077」は“自分”と他の誰か、それを分かつ抗いがたい世界との関わりを、そしてそこに生じる自己意識の様々なありようを描く作品なのです。
つまり、人によって違う経験が生じるよう意図して設計されたものを、主観的な評価軸で定量化することは危険であり、評価者の技量、知識、思い入れ(或いは思い入れの無さ)によって作品に不用意な重み付けや先入観を生みかねません。
例えば、“The Last of Us Part II”を評価することに意味や意義はありますが、はたして“Minecraft”を評価することに意味はあるでしょうか。(これはどちらかが優れているという話ではありません。加えて評価と評論、批評は当然≠です)
これはニューロマンサーやブレードランナーのように、存在そのものが現象もしくは運動であるような作品を点数付けしたところで何の意味もないことと同義です。世の中にはまれに説明を必要としないモニュメント的な作品が突如として出現し、それまでの世界をどこかで決定的に分かつ事態を引き起こしてしまいますが、端的に言えば「サイバーパンク2077」がそれです。
本作の何が凄いのか、それは前述した“高い没入感”とか、“シームレスな経験”、“リアルな作品世界の構築”といった言葉、散々あちこちで使い古されたような、にべもない常套句にこそ宿っています。
こういった安易な言葉を使わざるをえないことは残念ですが、例えば常套句として用いられる没入感と、「サイバーパンク2077」における没入感の間には、しばしばお偉い方々が「スピード感をもってほにゃらら」などと口にする(実際はぜんぜん速くない)“感じ”と新幹線くらいの差があり、没入しているような雰囲気を演出することと、(サイバーパンクだけに)電脳世界に飛び込んでいるような感覚ほどの違いがあるわけです。
「サイバーパンク2077」が達成した真の“没入感”について、言葉を尽くして解説することも可能ですが、それだけで大変な分量になりますし、なにより無粋であり、困ったことにここでいう優れた“没入感”は数多くある「サイバーパンク2077」の魅力の1つに過ぎません。
ナイトシティの作り込みが凄いとか、世界観が凄いとか、自由度が高いとか、奥深いゲームシステムが、といった言葉についても同様で、空洞化した美麗字句を本当の意味で伝えることの難しさに筆者は打ちひしがれています。
そんなことはさておき、ブレードランナーやスター・ウォーズのEP4を初日に鑑賞できるような類いの、またとない歴史的なチャンスが今、僅か数日後に迫っているのです。
ゲームやエンターテインメントがお好きなら、こんな機会を逃す手はないはずです。
おまえは“力”を手に入れたのだ。その“力”とともに、タフでクールで最高のヤツしかたどり着けない、命がけのエッジへと向かうのだ。だっておまえは“サイバーパンク”じゃないか。
『サイバーパンク2.0.2.0.』
ビデオゲームとしての「サイバーパンク2077」は、これまでのCD PROJEKT RED品質とファンの期待を鮮やかに上回り、ビデオゲーム産業のハードルと到達点をまた1つ高みへと上げた、途方もない最高傑作だと断言できます。
しかしここまでは、近年の“CD PROJEKT RED”作品とその品質を鑑みれば、実のところそう驚くべきことではありません(もちろん、これを驚くべきことではない、と言わしめるそのこと自体が数少ないトップスタジオのみに限定される異様な状況なのですが)。
本当に評価すべきCD PROJEKT REDの挑戦は、“サイバーパンク”と銘打った作品に取り組んだことにこそあるのではないか、と筆者は考えます。
“サイバーパンク”の文言を大上段に振りかざしたゲームで、最高の“サイバーパンク”経験を実現するために必要なものは何か。相当な紆余曲折があったであろう8年半もの追求をこの一点に集中させ、最後に生成された結晶が本作であり、この挑戦の成否こそがこの先10年、20年後のCD PROJEKT REDを左右する最も重要な柱の1つになるでしょう。
そこで、今回は本作をオーセンティシティと包括性という2つの側面から評価してみようと思います。
オーセンティシティ、オーセンティックという文言は、予てから相応しい日本語が見当たらずいつも悩んでしまう単語ですが、ここではジャンルもの、シリーズもの、オマージュ、歴史等から見た作品の正統性、或いは“本物”であること、贋物ではないことの証左を指すような意味だと考えて下さい。
という事で、「サイバーパンク2077」はサイバーパンクとしてどうなのか、そして政治から経済、文化、あらゆるポップカルチャー、歴史、哲学、文学、神話的英雄譚、未来技術、世界情勢、差別、多様性、暴力、セックス、ドラッグまで網羅する作品の異様な包括性が持つ意味にスポットを当ててみましょう。
最初に結論めいたことを申し上げると、「サイバーパンク2077」をサイバーパンクテーマのビデオゲームだというのは、決して間違いではありませんが適切とは言えません。サイバーパンクなゲームについては、非常に優れた伝統的作品からツイストに満ちた変化球まで、今や山のように存在しますが、決定的に違うのは「サイバーパンク2077」が、ビデオゲームのフォーマットで作られた最新の、かつ純然たる“サイバーパンク”そのものであるということです。
本作がサイバーパンクそのものであるということについては、ウィリアム・ギブスンの小説“ニューロマンサー”(及びこれを含むスプロール三部作)が純粋なサイバーパンクの始祖であり、原典であるという前提を念頭において、「サイバーパンク2077」の出自とビジョン、サイバーパンクジャンルとの関わりを振り返る必要があります。
少々ややこしい話になりますが、しっかりオチは用意してあるので、騙されたと思ってお付き合いください。
いきなり論点をはぐらかすようで恐縮ですが、1988年に誕生したTRPG“Cyberpunk”シリーズをビデオゲーム化した「サイバーパンク2077」という“現象”を見る時、文学における“サイバーパンクとは何か”という定義から入ってしまうと非常にやっかいで、歴史的・体系的な正しさが奇妙な歪みや先入観を生じさせてしまいます。
■ Update:2020年12月9日午後6時19分
突然の追記ですいません。レビューの主旨に変更を加えるわけではないのですが、幾つか質問を頂いてレビューを読み直したところ、以下にご紹介する話がややこしく、謎解き風になってしまい、最初に論旨を提示していないことから、意図していなかった誤解が幾つか生じ、正反対の内容にも受け取れる箇所がありました。少々勢いにまかせて筆を滑らせすぎたと反省しております。
原作の“Cyberpunk”シリーズにおいては、「態度」と「スタイル」が何よりも重要になりますので、この時点で筆者自身の態度と評価の概要を先に提示しておきたいと思います。
今回のレビューにおいて最もお伝えしたかった点は、「サイバーパンク2077」がサイバーパンク風のビデオゲームではなく、純然たる“サイバーパンク”そのものであるということ。そして、“純然たる”ということの実現が途方もない(タイトルに掲げたモニュメントの誕生とサイバーパンクの夜明けに匹敵する)偉業だということにあります。
この偉業がどういうものか、これを紐解くために原作“Cyberpunk”シリーズの出自と、“ニューロマンサー”を原典とするサイバーパンクの原理主義についてこれからご紹介するのですが、まずこれに対する筆者の態度を提示していなかったことが不十分でした。
筆者は、原典であるギブスンとスターリング作品、そして“Cyberpunk”シリーズの両方を愛していますが、原理主義/原典至上主義そのものには否定的で、サイバーパンクはもっと広く自由で良いと考えています。
その意味では、原典である幾つかの素晴らしいサイバーパンク作品よりも、文学の傍流でニューロマンサー以外の場所から生まれながら、猥雑さとスコープを自己増殖させ、その後ニューロマンサーの要素まで吸収しつつ、より“包括的”でなんでもありの巨大な遊び場を作り上げた“Cyberpunk”シリーズこそ、最高にいかしたサイバーパンク作品ではないかと考えているわけです。
原典と傍流の作品を並べて語る時、しばしば原典が優れたもののように感じられ、優劣の話になりがちですが、この点で筆者は全く逆の立場です。
“Cyberpunk”シリーズはニューロマンサーの萌芽を宿しながら潰えました。(この萌芽が何なのかは、ネタバレになるので直接的な言及は控えます。“Cyberpunk”は2020でニューロマンサーのスタイルを取り込んだが、プロットの本質的なテーマまでには手が届かなかった、そのような事だとお考え下さい)
CD PROJEKT REDと原作者マイク・ポンスミス氏は、「サイバーパンク2077」において作品の“包括性”をより具体的で強固なものにし、前述の“萌芽”を改めて育てあげ、不変的な物語の力強さまで手にし、巨大かつインタラクティブな作品世界そのものを脅威的な力業で作り上げてしまいました。
原典の直接的な血統から新しいスタンダードが誕生することは、よくある話で決して珍しいことではありませんが、今回の場合は傍流で自己増殖した無冠の傑作が遂に原典さえ飲み込んでしまうような、“とんびが鷹を生んだ”を地で行く《記念碑》的偉業であり、権威化した原理主義的視点で見れば30年近く停滞していた狭義の純サイバーパンクに新たな傑作がようやく誕生した。つまり「サイバーパンク2077」の完成は、“純然たる”サイバーパンクが30年ぶりに迎えた《夜明け》だとお伝えしたいのです。
以下、この内容を解説した追記前の続きとなります。
これは、ジャンルの始祖であるニューロマンサーを含むスプロール三部作と幾つかのブルース・スターリング作品を原典とする原理主義的サイバーパンクに対して、ジャンルそのものの名を掲げたTRPG“Cyberpunk”シリーズの出自が、実は全くもって純サイバーパンク的ではなかったことに由来します。(※ サイバーパンクそのものの出自について、ここでは一先ずブルース・ベスキやガードナー・ドゾワのことは置いておきます)
原理主義的なアプローチで言えば、ブレードランナーや攻殻機動隊、AKIRAといった作品は純粋なサイバーパンクではないわけですが、そもそも原作の“Cyberpunk”第1版はブレードランナーやウォルター・ジョン・ウィリアムズの小説ハードワイヤードから誕生したものでした。このハードワイヤードという作品は、サイバーパンクに分類される小説の1つであるものの、ざっくり言うとハイテクなマッドマックスや地獄のハイウェイのような作品であり、詰まるところ初代“Cyberpunk”はブレードランナーと(広義なサイバーパンクジャンルの象徴的な)ガジェットやサイバーウェアを鍋に放り込み、マッドマックスで煮込んだような作品だったわけです。
そもそも原作者であるマイク・ポンスミス御大がニューロマンサーを読んだのは、初代“Cyberpunk”を発売した後であり、「サイバーパンク2077」に深く関係する初代のストーリー“Never Fade Away”をはじめ、第1版にニューロマンサーの精神はほぼ宿っていません。(ギブスンの名前だけは第1版にも存在していますが)
しかし、マイク・ポンスミス御大がニューロマンサーを読んだことで再び強い衝撃を受け、“Cyberpunk”シリーズは遂に第2版の“Cyberpunk 2020”でニューロマンサー的成分と精神を手に入れるのですが、それでもなお“Cyberpunk”シリーズにおけるニューロマンサー成分の大部分はマクガフィン的な役割に留まっており、非常に残念ながら、いよいよニューロマンサー的な展開が始まるか!というところで壮大なストーリー展開が終了してしまいます。(※ キャンセルとなったFirestormシリーズの3巻“Aftershock”が発売されていれば、違ったかもしれませんが、事と次第によっては「サイバーパンク2077」そのものが誕生しなかった可能性もあり、結果オーライと言えるでしょう)
話が混み合ってきたので、ここで一旦流れを整理します。
「サイバーパンク2077」が純然たる(ニューロマンサー的)“サイバーパンク”であることについて、そのオーセンティックさに焦点を当てているわけですが、実のところ原作の“Cyberpunk”は全く純サイバーパンク的作品ではなかったというのがここまでの話です。
この奇妙な状態から、何故「サイバーパンク2077」が純然たる“サイバーパンク”へと進化したのか、その背景はマイク・ポンスミス御大のデザイン的なアプローチと他に類を見ない極めて特殊な才能に焦点を移す必要があります。
ここまでの背景を読むと、一見ニューロマンサーを原典とする原理主義が正統であり、それ以外を亜種とする“良し悪し”の話のように思えるかもしれません。
先ほど「“Cyberpunk”第1版はブレードランナーとウォルター・ジョン・ウィリアムズの小説ハードワイヤードから誕生した」と書きました。普段なら、少々配慮してインスパイアされたとか、オマージュを捧げたと記すようなところですが、直接的に誕生したと記載したことには意味があります。
本来、ブリティッシュ卿やウォーレン・スペクター氏と並び語られるような、非常に優れたゲームデザイナーであるマイク・ポンスミス御大の恐るべき才能の1つは、直接的な参照元から全く新しい価値を創造することにあるからです。
例えが悪いかもしれませんが、これは“機動戦士ガンダム”から、もの凄い仕上がりの“モビルフォースガンガル”的な亜種を生み出すような才能で(※ 古くてすいません。ガンガルが分からない方はお手数ですが検索してみてください)、御大が日本語を理解しないまま見た機動戦士ガンダムと百獣王ゴライオン、時空要塞マクロスから、ツッコミどころ満載の勘違いを清々しいほどに貫き通したまま“Cyberpunk”シリーズの前身である壮大なロボットアニメTRPG「Mekton – 多次元機甲戦士道メクトン」を作り上げ、見事にシリーズ展開を成功させたことが、その尤もたる例です。(注:日本語で表記した“Mekton”のサブタイトルは国内向けの文言ではなく、あくまで海外版タイトルの一部です)
余談ながら、お好きな方であれば、この関係はバトルテックの件を思い出させるでしょうか。奇しくもBattleTechとMektonは同じ1984年発売の作品でした。
“Cyberpunk”もやはりこの手法から生まれていて、ブレードランナーの原体験と原風景を捉え(奇跡的にニューロマンサーを通過しないまま)ちょっと不思議なサイバーパンク感満載の第1版“Cyberpunk”を作り上げ、その後のニューロマンサー体験と洗礼を以て、ニューロマンサー的萌芽を宿したまま、“Cyberpunk 2020”は完結したのです。
ただし、マイク・ポンスミス御大の卓越したプロデュース力や脅威的な同人的能力は、ギブスンにも通じる才能でもあり、お約束のインチキ日本描写を含む猥雑でいかがわしいサイバーパンク世界との奇跡的な相性の良さも相まって、次々と怪しげなサイバーパンク的要素を吸収・肥大化(ひいては運動化)していき、図らずも“Cyberpunk 2020”は文字通りカルト的な人気を誇る、最高にクールな真のサイバーパンク作品群に成長したのです。
2020での人生は、ガンとドラッグだけじゃない。もしそうなら、オレたちはこのゲームを『ダンジョン&ドラッグ・ディーラー』とでも名付けていただろう。
最高の『サイバーパンク』ゲームは、悲恋と息をもつかせぬアクション、目もくらむようなパーティ、薄汚いストリート、そしてどんな不利にでも正しいことをやるんだというドン・キホーテ的な探究のコンビネーションだ。『カサブランカ』にサイバーウェアを持ち込んだらかくや……という感じだ。
— マキシマム・マイク
『サイバーパンク2.0.2.0.』
ここで、一旦「サイバーパンク2077」という現象を“サイバーパンクとは何か”という視点で考えると妙なねじれが生じるとお伝えした件に戻りましょう。
これは、先ほどの例で言うと、モビルフォースガンガルを論じる際に、ガンガルをガンダムと見間違えたまま、機動戦士ガンダムのことを大まじめに語るような状況を指しています。
Firestormシリーズを含む“Cyberpunk 2020”は、本当に素晴らしいサイバーパンク群ですが、やはり原理主義的な意味では(ガンガルがガンダムではないように)純然たるサイバーパンクではなかったわけです。
ところが「サイバーパンク2077」という現象の非常に特殊で面白いところは、CD PROJEKT REDとマイク・ポンスミス御大の新たな挑戦によって、ニューロマンサーの萌芽を宿しながら潰えた30年前の作品に再び命が吹き込まれ、芽吹かなかった種を丁寧に育てつつ、新たにマトリックスやディック的要素も巧妙に取り入れ現代的にアップデートした上で、最もハードコアな原典よりもさらに狭義な純然たる“サイバーパンク”に進化させ、ニューロマンサー的“サイバーパンク”そのものをアクロバティックに再発明してしまったことにあります。
大事なことなので2度言いますが、「サイバーパンク2077」は混沌とした傍流から生まれながら、純然たる“サイバーパンク”を再発明した。本作はそういうレベルで語られるべき、まさしく記念碑的作品であるわけです。
では、この間に純然たるサイバーパンクは存在しなかったのか。ニューロマンサー誕生から10年を待たず、ムーブメントはポストサイバーパンク時代に突入し、スチームパンクやバイオパンク、アトムパンク、果ては塩パンクやらグリーンパンクにいたるまで、様々な拡がりを見せ、数々の傑作が生まれましたが、残念ながらストリクトな純サイバーパンクのヒット作は誕生しませんでした。
もちろん映画“JM”や“マトリックス”三部作は極めて純サイバーパンク的な作品ですが、これは映画というメディアの特性上、尺やスコープの面でジャンルのサブセットであり、サイバーパンクの成分を抽出・濃縮したものです。また、一縷の光を宿していたクリス・カニンガムによるニューロマンサーの映画化もついぞ実現することはありませんでした。
では、ここでいうサブセットとオリジンであるスプロール三部作、「サイバーパンク2077」に一体どんな違いがあるのか、それが作品の“包括性”です。
「サイバーパンク2077」は、本来の血統をひっくり返し誕生した鬼子のような極めて異例な純サイバーパンク作品となったわけですが、これを真に達成した大きな要素の一つは作品そのものの包括性にあります。
これは、スコープが狭まるほど純粋なサイバーパンクではなくなり、スコープが広ければ広いほど、つまり包括的であるほどサイバーパンクらしさが増すということです。
ニューロマンサーの衝撃は、高尚だったSFジャンルに世俗的なポップカルチャーや現実の問題を大量に放り込み、いかがわしくもスタイリッシュな文体とSF的な手法で現代社会そのものを切り取ったことにあります。
作品自体がSF的に加工された巨大な世界の諸相そのものであり、作品を目の当たりにした時の目も眩むような体験そのものがニューロマンサーの衝撃だったわけです。
取り入れる要素が多ければ多いほどサイバーパンク的猥雑さが際立ち、スコープを狭めれば成分を切り取った下位のサブセットになってしまう。
サイバーパンク“テーマ”の映像作品やゲームが大量に存在する一方で、(小説や一部のコミック以外に)サイバーパンクそのものと呼べる作品がなかなか生まれないことは、こういった背景に由来しています。
冒頭で「サイバーパンク2077」はCD PROJEKT REDの病状がさらに悪化した極めて過剰な作品だとご紹介しました。
本作は政治から経済、文化、あらゆるポップカルチャー、歴史、哲学、文学、未来技術、世界情勢、差別、多様性、暴力、セックス、ドラッグまで、考え得るサイバーパンク的要素を全て網羅しているだけでなく、サイバーパンクそのものの出自でもあるノワールとハードボイルドまで内包し、さらにはブレードランナーにおけるディック的恐怖や実存のテーマに最新のアップデートを施し、あろうことか古典の神話的英雄譚にまで手を伸ばした、化け物のような作品です。
“内包する”という言葉自体はとてもシンプルですが、例えばバンドをテーマにした漫画において、今凄い曲を演奏しているぞ!という表現をすること、或いは小説において「絶え間なく、何百万ものスピーカからのビートが混じりあい、波のような音楽が脈打っている」と書くこと自体は容易であり、このコストこそが小説やコミックに巨大なサイバーパンク作品が生まれうる理由の大きな一つであるわけです。
この点において「サイバーパンク2077」が極めて異常なのは、これを本物の音楽やアニメーション、膨大なボイスオーバー、巨大なオープンワールド都市、鮮やかな衣装など、全ての要素を実際の“もの”、そしてインタラクティブな要素でもって完全に具現化したことにあるわけです。
30年前のマイナーでカルトな、まさに知る人ぞ知るTRPGだったサイバーパンク作品を、キアヌ・リーブスやRefusedまで引き込み、本物の世界として再構築し、今やサイバーパンクと言えば世界中の誰もが本作を思い浮かべるような“現象”にまで昇華させる。この考え自体がもはや狂気の沙汰であり、無想するだけならまだしも、社運を賭けて巨額の費用を投じ、これを達成するなど到底信じられませんが、一体何をどうやったのか、これを本当に実現したゲームがあと2日で発売されます。
最後に1つ、筆者はここまで「サイバーパンク2077」を純然たるサイバーパンクと言い続けてきました。仮に「サイバーパンク2077」が、登場人物に対する残酷な扱いや過激な表現、暴力、猥雑さ、モラル、厳しい道徳的選択といった要素に手心・親心を添えるようであれば、或いは(神話的英雄ではなく)正義のヒーローを描くような作品であれば、決して“純然たる”とは言わないでしょう。
「サイバーパンク2077」はあらゆる意味で容赦のない作品であり、現代に蘇った純然たる“サイバーパンク”そのものです。
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